中山将の雑文と詩

シンガーソングライターです。妻と息子2人と暮らしてます。詩を書きます。絵も描きます。音楽も作ります。

音楽も在る生活

音楽が好きだと自覚しだしたのは

記憶を辿れば小学生

6年生を送る会 みたいなそんな会で

believe という曲を聴いた

メロディーや歌詞が、旅立ってしまう6年生の子たちの姿とリンクして感動した

 

それから

小学生の高学年〜中学生あたりになってJ-Popと呼ばれるジャンルの音楽を聴く様になった

親の影響でサザンオールスターズが好きになった。

TSUNAMI 忘れられたビッグウェーブ 旅姿六人衆 

良い曲ばかりだと思った。

メロディーを純粋に綺麗だと感じ

歌詞がドラマチックで素敵だと感じた

桑田さんの声や歌唱法が何故だかカッコ良い!と強く思った

 

それから、音楽のTV番組を意識的に観る様になった。

当時は HEY!HEY!HEY! うたばん ミュージックステーション など 沢山の音楽盤組がやっていて

ミュージャンの人となりが見えて

笑いもふんだんにあり

色んな音楽が聞けるのが 楽しくて仕方なかった

この音楽はつまらないなあ~

と思うことも大事だった。

なぜなら 自分はどんな音楽が好きで、どんな音楽が嫌いか 自分でわかってくるから

 

そしてMr.Childrenというバンドの音楽に出会った

何かの音楽番組で 1994年 だったかのトップ10みたいなのでtomorrow never knows を聴いて これまで聴いたどんな曲よりも 強い感動を覚えた

そこからTSUTAYAレンタルCDで ベストアルバムやオリジナルアルバム全てを何度も聴いた

 

Mr.Childrenの音楽に教えてもらった事が沢山在る

•メロディーや歌詞やアンサンブルでこんなにも感動することができる

•歌詞で人の生活や人生を救ったり、励ましたりする事ができる

•ギターが弾ければ、ライブができるし作曲もできる

•自分は地声では高いほうのファ♯くらいが限界、以外と低音は出る

•自分が美しいと感じるメロディーにはある程度の法則性がある

•転調を効果的に使うと感動は何倍にもなる

などなど まだまだ沢山在る

 

そんな傍ら、母の影響で 車の中で ビートルズ のベストアルバムを聴く

同時に中学校の下校時にかかる音楽も レット・イット・ビー だった

 

レットイットビー や イエスタデイ は素敵な曲だと思った

でも アクロスザユニバース や ノルウェーの森 はあまり良いと思わなかった(今はいちばん好きになっている)

 

Mr.Childrenを中心としたJ-Popがいちばん好きで聴いていた

同時に英語の先生が授業で教えてくれた ビリージョエルのオネスティ などもこれは良い曲だと思った

しかし歌詞はどうしても 後で和訳を読んでから認識するので メロディー×歌詞のJ-Popに心が震えた

 

そして中学校3年〜高校 あたりで アコースティックギターを始めた

最初は父のおさがりの ボロボロのYAMAHAのアコギだった

教則本を母が買ってくれて 最初は確か 藤井フミヤトゥルーラブとかを練習した

Mr.Childrenの曲はコードが難しくてなかなか弾けなかった

 

母が 「好きなら習ったら?」と言ってくれて

岐阜の当時住んでた本巣市の北方というところに在る ララ楽器 という楽器屋さんのおじちゃんに頼んで 月に3回習わせてくれた

 

おじちゃんはとても優しくて 毎回課題曲の譜面を持ってきてくれて、コードの押さえ方や右手の弾き方を丁寧に教えてくれた

 

最初は スピッツ空も飛べるはず ビートルズのレット・イット・ビー 森山直太朗のさくら などだった

 

それから

学校から帰って、ご飯ができるまでの時間、いつもギターを弾く様になった

指が痛かったが 少しずつ慣れるのがわかった

指先に厚い皮ができ出すと痛くなくなった

Fというコードを弾くのが難しかったが

ララ楽器のおじさんに指の側面のカドで抑えると良い と教えてもらいやってくうちにだんだんできるようになった

 

ギターが弾ける様になると、色んな曲を 弾き語り できるようになり、かなり下手だが弾き語りを家でするようになった

そして、Mr.Childrenの桜井さんの真似事のように曲を作った 確か曲名は 「孤独な群衆」

 

高校2年生くらいになるとかなり上達して、ちょっとはまともな曲も作れるようになった

僕の 夕陽 という曲のサビのメロディーはこの頃作った 当時は スローバラードと名付けていた

 

この頃 親友ができた 今はシネマスタッフというバンドのボーカルで音楽している 飯田くん である

ギターを弾きながら歌う という遊びがただ楽しくて 放課後の教室で 音楽室から借りたクラシックギターで 弾き語りを聞かせあった

ぼくの スローバラード のメロディーを飯田くんが誉めてくれて すごく嬉しかった

 

自分には少し才能があるのではないか

と思わせてくれた

 

しかしながら、飯田くんの才能はとてつもなかった

ひと声発しただけで 空気の色や温度が変わる ホントにそんな感覚だった

当時 お互いに付き合っていた人に書いた曲 を聞かせあったが 飯田くん の曲はとてつもなく良い曲だった

 

高校生の時は Mr.Children熱は少しおさまり 森山直太朗さんをよく聴く様になった

当時 ウルルン滞在期 というドキュメンタリー番組がやっていて好きだったのだが

そのエンディングテーマの さくら をきいて

美しい曲だ 

と強く思った

歌声にここまでファルセットを織り込む珍しさと

歌詞の 日本語 がまるで 絵 みたいな色味を持った美しさ、意味に頼らない美しさを感じた

 

それから 森山直太朗さんの 音楽番組やライブ映像、CDなどをとにかく追った

全て素晴らしかった 

作詞に 御徒町凧さん という方が入ってるのをしり追いかけた

詩人だと知り 彼の詩集などを読んだ

楽家と詩人の共作でこの世界観が出ているのだと知った

ぼくも 歌詞、詩 にこだわりたいと思った

 

大学も日本文化学科を専攻したのはその影響だと思う

 

高校では 森山直太朗ハナレグミ などが好きだった ギターの弾き語り というスタイルの音楽が好きだった

 

大学に進んで ライブ をしたいと思った

そしていつか 職業ミュージャン になりたいと思った

シンガーソングライター というのか

具体的には

自分で曲を書き、人前で演奏する それでお金を稼いで生活する人

になりたいと自覚した

 

そのためには先ずはライブをしなくてはと思った

 

そのためには音源が必要だと思い、岐阜の岐南というところにあるミスタースタジオというところのマスターにレコーディングしてもらい スローバラード、サンセットベール という2曲をレコーディングした

そして

名古屋のさまざまなライブハウスに訪問して自分のCDを持参して、ライブさせてくださいと回った

名古屋の主要なライブハウスは全て回った

 

いまから考えたらすごいなと思う

いま、営業マンとしてもここまでのバイタリティは出せない

尊敬する

 

ハートランドスタジオ というライブハウスのブッキングの人が声をかけてくれてライブが決まった

ライブにはノルマがあり、お客さんが来ないとチケット代を自腹した

最初は友達が来てくれたが、当然最初だけでそのうち自腹の額が増えた

当時のバイト代はほとんど消えていった

 

それから、コンテストというコンテストに出るようになった

SONYYAMAHA島村楽器、ユニバーサル、EXILEのオーディションも インターネットで見つけた参加できそうなコンテストはみんな参加した

名古屋エリアの決勝くらいまでは行ける事ができたが、どうしても全国大会で東京に行く事が出来なかった

 

くやしくて仕方がなく

YAMAHAのコンテストで審査員に食い入る様に「じゃあどんな曲を書けば良いんですか?」と言った

その審査員の人は

「中山くん それは自分で考えるんだよ。」と冷たく言った

悔しかったが どうしたら良いかわからないと思った

 

 

当時、聴いていた音楽はすこし広がった

インプットして作曲に活かしたいと思ったからだ

Mr.Children森山直太朗ハナレグミ のほか

コブクロBUMP OF CHICKEN安藤裕子椎名林檎スキマスイッチスガシカオ山崎まさよし

 

洋楽はシンガーソングライターが多かった

ボブディラン、ビートルズ、リックプライス、ノラジョーンズ、ニールヤング、キャロルキング、ジェイムステイラー、ビリージョエル、ジェイソンムラーズ、ジョンメイヤー

 

この頃 音楽を聴く時の考えが

 

音楽で売れたいから

売れるために売れている曲を聞こう

 

という思考だったような記憶がある

いまから考えたら、つまらない音楽の聴き方だと思う

そんな事をしたら 

ごくごく偏った音楽しか聞けず

ごくごく偏った音楽しか作れない

 

 

 

大学生の時

友人 シネマスタッフ は東京へ行って

レーベルに所属し活躍していた

 

きっとぼくの音楽への情熱はシネマスタッフの音楽に起因すると思う

 

ぼくもそこへ行きたいと思った

同じ様な景色を見たいと思った

 

 

大学生3年生 ぼくは就職活動をした

音楽だけでは暮らしていけないから

内定をもらい、働き出した

建設コンサルタントの営業だった

その会社で、とても尊敬できる先輩に出会った

 

社会のため、会社という組織のため、家族のため、自分のため 

前向きに取り組む、楽しく取り組む、誰にも平等であろうとする、説教には愛を込める

親に教わらない事を教わった

宝物である

 

 

音楽ももちろんやっている

 

職業ミュージャンになりたい気持ちは膨らむばかりであった

 

コンテスト、ライブを続けた すごい勢いでたくさんたくさん曲を書いた

全ての曲に自信があり、どれだけでも書けると思った

どんどんメロディーは湧くし、歌詞もどんどん書けた

自分には才能があると思った

 

そのうち、ライブでノルマを払うのではなく

自分でハコをおさえ、企画し、収益をいただく というスタイルに気がついた

 

いままで、バイト代をライブノルマに払っていたのに、音楽で収益をいただける

これが音楽を職業にする事の本質か

ということに気がついた

 

そして、コンテストではなく

東京に行って 音楽で収益をあげる努力 をしたいと思うようになった

 

当時マネジメントをしてくれていた、倉原さんが教えてくれたことだった

 

僕は会社に辞表を出した

営業部長が優しい言葉をかけてくれて号泣したのを覚えている

職業ミュージャンに必ずなる と思った

 

マネジメントしてくれた倉原さんという方と東京に住む事になった

ハイエースを借りて、荷物を載せて 東京へ向かった

倉原さんが僕の家に荷物をとりに来た際

「不安定な道に誘いすみません。」

と言った際に

 

両親が

「いいえこちらこそよろしくお願いします。」と頭を下げてくれた事を覚えている。

この両親の息子で良かった。と心から思う。

 

上京前に鶴舞のKDハポンで行ったワンマンライブはソールドアウトした

自信を少しつけていた

もしかしたら 職業ミュージャン になれるかもしれないと思った

僕には才能があると思った

 

神奈川県の溝の口というところに住み出した

夜のスケジュール空いている日は

溝の口駅、川崎駅、新宿駅池袋駅 あらゆるところでストリートライブをした

 

必死でブッキングをして

あらゆるライブハウスで演奏した

新宿ルイード、渋谷ソングライン、新横浜ベルズ、浅草リトルシアター、下北沢バラックブロックカフェ、新宿サクト 

名前を思い出せない、まだ在るのかもわからない、いろんな所で とにかくたくさんたくさんライブをした

 

そしてCDを販売してそれが収入となっていた

といっても月に多くて2万〜3万といったところだった

 

当時も音楽はたくさん聴いた

関東にきて シネマスタッフの飯田くんと よく飲みに行った

色んな音楽を教えてもらった

自分でも渋谷のタワーレコードに通い沢山の音楽の情報を仕入れて聴いた

 

Radiohead

を飯田くんに教えてもらい、聴き込んだ

フジロックにいってライブも見た

しかし、良さがわからなかった

良いと思いたくても 思えない自分がいた

(今は大好きな音楽の一つになった)

 

 

 

たくさんたくさんライブをして

必死にアルバムも作ったが

収益が全然増えなかった

 

 

 

職業ミュージャンになりたいと思っても

僕のやっていることは ビジネス として成立していなかった

 

ライブのない日は、昼まで眠り、腹はすくがお金もなく、夕方くらいに外へでてスーパーで安いお惣菜を買いに行く。

工事現場の脇を通る際に「僕はなんの仕事ができているのか。社会にどんな価値を与えているのか。」と落ち込んだ。

そして家に帰り、曲作りをしながら深夜になり。

朝方に眠って 昼に起きる。

 

 

これではダメだと思っていた時に

倉原さんと住んでいたマンションが取り壊しで、立ち退きの話しが出た

引越し代を出してくれるから出て行って欲しいとのこと

 

これが転機かと感じた

再就職、マネジメントしてくれてた倉原さんと決別した

 

 

 

 

名古屋でライブがある際はいつも岐阜の実家に泊まった

母と夜に話をしている時

「僕は音楽 ダメそうだわ。」とぼくが言った際

 

母は

「しょうくん、1年や2年で ダメなものか 音楽は一生かけてするものでしょ。音楽を甘くみちゃいけないよ。」

と言った

 

 

新宿のサクト というライブハウスが大好きだった

店長の鳥羽さん オーナーの小野さん

出演している人みんな お客さん

類は友を呼ぶ と言うようにみんな 

音楽と人が好き な人たちだった

 

新宿サクトでライブをするといつも終電を見送り朝まで飲んで、語り合った

 

バーゲンズさん、コトノハさん、やまぐちしょうさん、セルピコさん、城領さん、ひびこうぞうさん、チャトランさん 

名前を忘れてしまったけど顔と話したことと音楽を覚えているミュージャンが山ほどいる

サクトで過ごした時間の全てが宝物だと心から思う

 

 

素晴らしいバンドメンバーとも出会った

ベースのじゅんくん

バイオリンの橋本さん

ピアノのりなさん

ドラムのおだくん

 

 

同世代のすごいシンガーソングライターもたくさんいる

袈裟丸くん、田中雄也さん、ヒトリルームふくちゃん、松室くん、おっくん

 

 

すごいコンポーザーもいる

堀畑くん、塩崎じゅんぺーさん

 

 

深い深い音楽をするすごい人がいる

広沢タダシさん

聞けば聞くほど、歳を重ねれば重ねるほど アルバムに感銘する

 

 

 

いま

僕は巡り巡って地元に戻ってきた

妻と息子が2人いる

律 と 奏 という名前だ

 

旋律を奏でるように生きて欲しい

という願いをこめて

親の趣味嗜好を与えてしまい、恐縮なところもあるが

 

音楽は素晴らしいのである

僕は音楽があったから幸せだったし

今も幸せだ

 

音楽の素晴らしさとは↓

 

美しい音は美味しい食べ物みたいに体を喜ばせる

 

綺麗なメロディーにはなぜか心が震える

 

そこに、良い言葉が乗ると効果がさらに増える時がある

 

音楽を作るなかで、正しさとは 優しさとは と考える こんなふうに考える時間は結構貴重だ

 

音楽は記録できる、記録は記憶を呼び起こす その記憶が宝物だったりする

 

音楽には実は制限はない 実は完全な自由だ だから飽きることは多分無い

 

音楽は鳴っている音だけでは無い 鳴らしている人の人生、思想、文脈すべてだ だから 奥深さがすごい

 

人を傷つけるための音楽に出会った事がない これはすごいことではないか? 当たり前に人を傷つけるような事が この世界に社会にどれほどあるか

音楽はそれが無い

 

 

 

 

2021年12月

33歳

音楽についての文章を書いた

 

ぼくには僕の生活があり

あらゆる人にはあらゆる人の生活がある

ねずみにはねずみの生活があり

松には松の生活がある

 

当たり前のことである

 

僕はその生活の中で、今、音楽をやっている

正直なところ

こんなこと言うのもアレだが

比較すると僕には才能は無いと思う

比較というのは 僕が出会ったり、見たりしてきた圧倒的才能を持ったミュージャンたち

 

でも、今はもう落ち込まない

もう比較の上で音楽をするのをやめた

自分の生活の中で、音楽をただ鳴らしたい

先ほど書いた 

音楽の素晴らしさ はそこに在る

ギターを弾いたり

ピアノを弾いたり

歌を歌ったり、黙ったり

して 

自分が綺麗だと思う音を鳴らす

正しいとか優しいと思う言葉を綴る

 

 

 

そしてこれから先も 

生きてる間は音楽を続けていきたいと思っている

 

マイペースに

 

 

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